二重の光
本江邦夫
「私たちの生は 変身とともに 消え去っていく」
(ライナ・マリア・リルケ)
今世紀におけるもっとも特異な画家のひとり、バルテュスの処女作が十三歳で出版した絵本『ミツ』であり、かわいがっていた猫をめぐるこの絵物語の序文を書いているのが、意外にもリルケであることはよく知られた事実である。バルテュスの母で自身も画家だったバラディヌ・クロソウスカと、今世紀のもっとも重要な詩人のひとりリルケとのあいだにはある種の内的な交感があり、往復書簡も残されている。今さらいうまでもなく、リルケはことさら手紙を、それも淑女あての手紙を好んだ詩人であった。とはいえ、その内容には軟弱なところはほとんどみあたらず、芸術、時代、社会にたいする鋭い直感が満ちあふれている。たとえば、一次大戦が終結して間もない1921年2月28日づけのバラディヌあての手紙では、目にしたばかりの数十点のクレーの線描にふれつつ次のように書いている。「戦争の数年間というもの、私はしばしば対象が消失していくのを眺めているような印象をもちました。」それまで不動のものと思われていた建築物が強力な爆薬によって一瞬のうちに灰燼に帰する、これはおそらく最初の科学戦ないし機械戦ともいうべき一次大戦を目の当たりにした者の実感であったろう。そして、「うち砕かれた存在は、さまざまな破片、残骸にその最良の表現をみいだすことになるでしょう。」対象の消失と存在の断片化、これこそは20世紀の絵画の本質ではなかったか。
富岡直子の一連の発表について一文を草するにあたって、なぜリルケの手紙を思い出したのか、はっきりとした理由は分からない。ただ、彼女の作品空間のなかにある一種の所在なさが、おのずから対象の喪失ともいうべき事態を呼び起こし、そこからリルケに行きついたのだとでもいうしかない。対象の喪失、それをすぐさま非対象絵画といいかえて事足れりとするなら話は簡単でいいかもしれないが、実際は、非対象絵画とはいっても絵画の主題の対象性そのものが失われているわけではない。つまり、それは再現的ではないけれども、あくまでも具体的な対象を前提とした絵画なのである。富岡直子の作品には、事物の存在そのものに根ざしたそうした対象性はみあたらない。それはむしろ、絵画という視覚が支配する場にあって、事物が事物として存在することを保証するもの、つまり光に向けられた表現、いやむしろ光のメタファーなのである。
とはいっても、世界に遍在する光そのものが彼女の主題というわけではない。事物なり対象なりがあって、光の介在によってそれを見る者がある。まさにその関係性において作品は生じるのである。やや堅苦しい言い方をするなら、対象というものを設けずに、ひたすら視覚ないし知覚を問いかける富岡直子の世界は、この点で現象学的といえるかもしれない。1993年のNICOSギャラリー(東京・本郷)の個展は「たゆたうものとして」と題されていた。しかしながら、注意してほしい。そこでたゆたうのは事物なり対象ではない。たゆたうもの、それはむしろ光とともに世界に立ち会わされた見る者の存在そのものなのである。
それにしても、「たゆたう」―――富岡直子の作品の断片的性格をこれ以上にみごとに言い表したことばもないだろう。実際、彼女の作品は真っ白な地を背景とした、光の破片のような半透明の緑の色面の重なり合いでできており、しかもそれらはつねに不安定に揺らいでいるようでいて、世界というものをあるまとまりをもった内的な空間として見せようとはするが、けっしてその全体像を明らかにしようとしない。しかしながら、だからといってそれは世界の部分であるというのでもない。部分と断片とは厳密にちがうものである。部分とはあくまでも全体の一部である。よく部分と全体の一致というが、こうした整合性こそ部分―全体の関係に本質的なものである。これに対し、断片とはむしろ全体の痕跡であり、本質的にまとまりを欠いたものである。だからこそ、すべからく断片には世界ないし全体を遙かに希求するところがある。全体とはいわば、断片の故郷なのだ。なぜリルケが、事物の表現において打ち砕かれた存在の破片つまり断片を強調したか、その本当の理由はここにある。
富岡直子の作品を前にするとだれでも、きらきらする光のもと新緑の森を散策する詩人の気分になるだろう。光はつねにうつろい、風はいつ吹くか分からず、世界が見せるのはつねにその華麗な破片だけだ。しかし、そうした瞬間の切実さこそ、実は彼女の断片的な作品の秘密かもしれないのだ。ガレリア・キマイラの今回の個展では、テラスに向いた大きな窓から陽光が降り注ぎ、この外なる光は作品の内なる光と同調しつつ、また作品にひそむ陰影をも明るみにだした。たしかに、富岡直子の世界にはある種の暗がりがある。そしてそれは、見る者の内部に特別な暗闇として蓄積された光の記憶を呼びさます。外なる光がこの世のすべてではないのだ。富岡直子はいっている。「私達はときに真昼の太陽の下でさえ存在を確信できずにいる」と。実際そのとおりだ。外なる光に拮抗する内なる光つまり「見るもの自らの闇の中に重ねた光」をもたないかぎり、見るものはいつまでも自らの存在を確認できない。富岡直子の光と闇、いやむしろ二重の光に包まれてこそ、見る者ははじめて見る者となるのである。
(東京国立近代美術館学芸員,1995)





