富岡直子あるいは光の形而上学
“... and therefore never send to know for whom the bells tolls;it tolls for thee.”------ John Donne
本江邦夫
富岡直子さんの作品を見る機会をえてからかれこれ10年になる。この間、彼女はほとんど愚直とも思えるほどに、一貫して「光」を主題としてきた。とはいっても、それはよくありがちなニュアンスにとんだ抒情的なものではないし、最近流行のことさらに映像を意識した「作為」とも無縁である。富岡さんの光はたんなる光線とか反射光ではなく、私たちの身体を、たとえば運命のように切り裂きつつ通過しながら、宇宙との一体感をともなったある種の神秘的な感覚で満たしていく、あえていうならば形而上学的な光である。富岡さんの作品を前にすると、私はいつも何かの結晶とか切子細工を想う。つまり、そこでは光は捉えどころのない輝きというよりも、透明ではあるけれども硬質な煌き、いやむしろ実体なのである。
富岡直子さんにあって、なぜ光はほとんど絶対的なまでに、かくも物質的なのか。答えは(そして問いも)さまざまに可能であろうが、画家との数少ない対話をつうじて、ほとんど私が確信しているのは、その人生のある時期、ある場所に、時の流れそのものをただ一点に圧縮するかのような、光の決定的な体験があったのではないかということだ。こうした言い方には、どこか神秘主義が臭うかもしれないが、そう思わざるをえないほどに、富岡さんの光は、いかに戯れて官能をくすぐろうとも、あくまでも現実的で具体的(concrete)なものであり、まさにこの事実こそがその作品世界からすべての感傷を斥けているのではないだろうか。
そして、私は考えるのである。ここまで現実的な光を、いつまでもありきたりの情緒的な光として通俗化するのは間違っているのではないかと。富岡さんの真摯なことこの上ない、おそらくは孤高の営為にあって、それはむしろヴィジョン(ラテン語のvidere「見る」に由来する)、つまり啓示のごとき「視の絶対化」の現れであると、言うべきなのではないかと。ヴィジョンとして見たもの、体得したものはすでに真実であり、揺るがしがたいものである。西欧中世においては、そうしたヴィジョンの天上から地上へよって来る経路を光の束、つまり実在としてあらわした作例がある。ヴィジョンとは、ただの幻ではないのである。
富岡直子さんにとって、光の表現が、透明水彩を想わせる淡くはかない気分のようなものではないことは、パネルに綿布を貼った支持体の堅牢な存在からすでに明らかである。実体のない光とおぼしきもののために、画家は意外なことに、まず壁のごとき抵抗感を求めているのだ。そして、下地としてジェッソを塗りこめ、ヤスリで削り、ならしていくのだ。光を物質とするためには、これだけの下準備が必要とされるのだが、それは見方を変えれば、この時点で光だけではない、精神の物質化も始まっているということである。
下地が出来あがると、光を封じ込めるように、あるいは引き出すようにして色とかたちが、衝動的に、まるで何かの物語/歴史(l'histoire)のように力動的に展開していく。しかし、この様子を一種のフォーマリズムとして論じようとしてみても、それはただ色を色に、かたちをかたちにしているだけのことであり、ほとんど意味がない。それよりも、こう言ったほうがいい。富岡さんの色とかたちを包み、貫く光は、現代の黙示録、映画「マトリックス」で悟りを開いたキアーヌ・リーブス扮する主人公ネオが光となって敵の体内に入り込み、内側から発光して敵を切り裂くように消滅させる場面を髣髴とさせると。富岡さんの造形にはそうした独得の鋭利な力づよさがあるのだ。
富岡直子さんはジェッソの地塗りの上に、緑、青、黄色を基調とした鮮明な色を重ねつつ、類例の無い透明感と奥行きを生み出すことで、すこぶる精神的な境地を実現してきた画家である。そのスタイルは一貫してはいるものの、近作において新たな要素として紫、このもっとも高貴な色が参入しつつあり、今後より高度で深遠な物語り/歴史が期待されるのは注目すべきことだ。
また、作品を眺めていると、これはたんなる偶然かもしれないが、従来の光の壁のごとき画面に、凹凸というか遠近感が強まり、その結果として断崖の中腹にある露営地とおぼしき小さくはあるけれども静謐な場所が用意されつつあることはいかなる意味を訴えているのであろうか。今の私にこれにたいする十分な答えはないが、少なくともそれが視覚的には見る者たちの、それぞれに孤独な魂の休息所の役割を果たすであろうとは言えそうだ。孤独な魂のこうした休息もしくは沈思黙考から生まれるものがあるとすれば、それこそは光の形而上学と呼ばれるべきものかもしれない。富岡直子さんはその祭司ともいうべき存在なのである。
(多摩美術大学教授/府中市美術館館長)





