naoko tomioka 富岡直子

 
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視覚の培養器:見つづけなくてはならないもの

佐々木正人

 富岡直子の作品の前に立つとまず浮遊が起こる。知覚心理学は、環境にいて立ちつづけたり、移動したりする私たちの行為を、周囲にあるものの表面を密に埋めている微細なきめの変化が制御していることを示している。きめの変化を光学的流動とよぶ。それは行為が周囲の見えと柔軟に接続することを可能にしている。富岡の画面は経験したことのない流動場を私たちの視覚に与える。ゆるやかにたたまれた綿のような、なじみのない媒体が、すばやく眼と画面の間に介入して、であいがしらに姿勢の制御をゆるめてしまう。足裏と床との摩擦がうすくなり、画面の前での移動がやや自在になる。靄(もや)に包囲されたように見えるが、それはこの画面の前では流動場のオプティカル・フォース、つまり光にある行為を制約する力が弱いせいである。浮遊は、光と視覚を接続する情報が粗いので、身体がわずかに動揺して起こる効果である。
 このやわらかな包囲はしかしいつまでも続かない。浮遊を土台にして周囲にいろいろなことがあらわれてくる。いくつものかたちが見えるが、ここにあるかたちは一つのかたちに収まっていない。眼は不安になってかたちの輪郭をたどろうとして、輪郭線がないことに気がつく。かたちの境界にあるのは線ではない。どこかとつながろうとしている接合部としての縁(へり)である。一つの縁は多様な近隣と同時に接している。だから関連せずにいたいくつものかたちが急にリズミカルに強調しはじめ、いつのまにか画面の大部分を制する大きなかたちとしてたちあがってくるようなことが起こる。深さにも同じようなことが起こる。色に塗りつくされていると見えた部分の下に、わずかにことなる色が見えてくる。下地の白間で含めて多重な色の入れ子が潜んでいる。このようなかたちや色の変化は、私の眼が探しあてたことではない。もともと画面にあってそこで自律して動いているよう起こる。
 靄の中にだんだんといろいろなことが見えてきて全体が鮮明になるというわけではない。いつも画面のどこかが、眼と新たに同期しはじめる。一つの変化が他の変化の呼び水になることもある。あらわれたことを眼で捕獲しておいて、画面に定着させて全体を一つに落ち着かせてしまおうと焦るのだが、すぐに、ここに固定した何かを見ることは困難だとわかる。ここにあるのは視覚協調の巣である。画面の前に立つ者は靄と止むことのない生成のリズムの両方に包囲される。
 画面は変わりつづける。変わらないものならば、たまに見ればよい。変わりつづけているものを私たちはなんども見る。そして視覚とはほんらい変化に吸引されるようにできたシステムなのだということに気づく。画面に眼を向けるたびに、それがとらえがたいところであることを思い知らされ、うれしくなり、一方で後悔もする。いちど見はじめたら見つづけなくてはならない、そういうものがあるという思いである。
 変わりつづけることに出会うと、それにかかわりつづけなければならない。私にはそれが富岡直子の作品群が提示している主題に思える。ここにあるのは発達する画面であり、視覚がいつまでも結晶しつづける可能性である。彼女が「光を表現しようとしている」という人がいるそうだ。おそらく光もそういうものなのだ。

(生態心理学者/ 東京大学教授)


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